近未来予想図

  先日、退院しましたが、白血球数が回復するまでは外出は控えるようにとのことなので、自宅で本を読んだり、体操をしたり、音楽を聴いたりして過ごしています。新型コロナウイルスの感染が拡大しているので、インフルエンザも含め人混みに出ない生活は丁度良いかと諦めています。  入院中に読んでいた P.モーランド『人口で語る世界史』(渡会圭子訳 文藝春秋)に日本に関する記載がありますが、日本の特徴として  <日本はいくつかの点で他の国とは違っている。アメリカや西ヨーロッパは差し迫った人口減少を、第三世界(西ヨーロッパの場合は東ヨーロッパからも大量の移民が流入している)からの移民である程度補い、それが人口の民族構成に影響を与えている。>  <日本と西洋のはっきりした違いが移民ならば、日本とロシアのはっきりした違いは平均寿命である。ロシアの人口が減少している要因は、高いままの死亡率と低い出生率だが、日本の場合、平均寿命の延びが出生率の低さを相殺して、人口減少は遅れている。今後も日本人の平均寿命が延び続けなければ、人口減少は速まるだろう。日本は民族的にはほとんど同質だが、どんどん老いているということだ。>  <今世紀半ばには、日本の人口は八千万人(現在の三分の二未満)まで減少する可能性がある。>  極限の少子高齢化社会がどんな姿なのか・・・、年金制度の破綻、医療・介護保険制度への負担、地方社会の消滅、GDPの低下、3K仕事は高齢者、AI・ロボットの進出、移民の受け入…

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入院中の読み物

  まだ入院中ですが、外泊で自宅に帰っています。明日の検査結果が問題なければ近日中に退院の予定です。治療後数日間は体がだるく、吐き気もあって沈んだ感じですが、1週間もすれば回復しました。  夕食が過ぎると、朝までが長く、時間を持て余しますが、本を読む気力もなく、ただただ寝ていましたが、ここ数日、P.モーランド『人口で語る世界史』(渡会圭子訳 文藝春秋)を読んでいます。昨年末の新聞の書評欄でみかけた本です。人口の増減、出生率、死亡率、移民といった因子で分析した歴史の解釈で、興味深く楽しめます。ブリテン、ドイツ、フランス、ロシアなどの人口増加の規模と時期のずれが、各国に恐怖心を与え、時代が動くさまが詳細に語られています。 人口で語る世界史 作者: ポール モーランド出版社: 文藝春秋 発売日: 2019/08/29 メディア: 単行本   以前、河野稠果『人口学への招待』(中公新書)を読んで、「人口」というもののおもしろさを教えられましたが、今度の本は各論的で具体的なだけに、日本が人口減少時代に突入し、毎年、ひとつの地方都市が消滅するのと同じような感じになっている現状に、どうなるんだろうと不安になります。もう少しさきのページに日本の分析があるので興味が持続します。    はれて今週は退院かな・・・。     #「人口減少のこと」https://otomoji-14.seesaa.net/article/2014-08-10.html     #「また人口減少のこと」…

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紀ノ川の流れ

  ここ数年来、様子をみていた病気が、そろそろ治療したほうがいいだろうということになって、正月休み明けから入院しています。今日は連休で外泊になりました。検査も終わり、来週から治療です。  この間から朗読を聞いていた有吉佐和子『紀ノ川』(新潮文庫)が読了になりました。高校生のころ(1964年)連続テレビ・ドラマで観た記憶があります。南田洋子が主演でした。和歌山の人はこんな喋り方をするのかと、方言が印象的でした。十年ほどまえ、古い映画化(1966年)されたものもDVDに録画して観ていました。こちらは主人公を司葉子が演じていました。  原作の小説はなんとなく手にする機会がありませんでしたが、ふと読んでみる気になりました。東から西に流れる紀ノ川の上流、九度山の慈尊院の石段を上がる祖母(豊乃)と孫娘(花)の場面から始まり、花が船に乗って下流の六十谷(むそた)の真谷家に嫁いでいくながれは流麗で、著者三十代の作とは信じられないほどです。  島崎藤村『夜明け前』が幕末から明治にかけての男系の家の物語であるのに対し、『紀ノ川』は明治から昭和戦後にわたる女系の家の物語です。豊乃から花、そして文緒から華子へと連綿と続く血脈が綴られます。  結末近く、没落のなかで花の言葉は痛烈です。  <花は大きな入歯を口からはみ出すようにして、皺の中に笑いを展げ、/「そやよって、農地解放のときは私は嬉しかったんよし」/と云うのだった。/「これで真谷の家はどないしても建て直しがきかんよ…

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寂聴さんの源氏

   四ヶ月ほどまえから、家内が瀬戸内寂聴訳『源氏物語』(講談社文庫)を朗読しているので聞いていましたが、昨日、やっと読了しました。十数年前にわたしがいつか読もうと買っておいたのですが、一冊だけ読んで、そのままになっていました。ちなみに三十年以上前に買った谷崎潤一郎訳は手付かずのままです。  朗読を聞くというのは、平安時代でも『源氏物語』を楽しむ一般的な方法だったんじゃないかと思います。書き写すのには、高価な紙が膨大な枚数必要で、労力も大変です。黙読より朗読を何人かが一緒に聞くというのが普通だったような気がします。  最初は光源氏や頭の中将のはなしですが、だんだんと紫の上の立派さが印象的になります。周辺の女房や仕える人たちの様子がリアルで、物語のおもしろさを引き立てます。重要な場面の小道具に猫が使われたりします。  最後の宇治十帖は光源氏の孫の世代のはなしになりますが、薫の君と匂宮のはざまで苦悩する浮舟の挙動が強くこころに残ります。これは確かに千年経っても古びない物語だと実感されます。記憶喪失から徐々に回復してきた浮舟は、意思強く剃髪し尼になる。  そういえば寂聴さんも尼僧だったと思い当たります。あとがきのようなところで「私はここに来て、はじめて作者自身も、出家しているだろうと感じた。」と書き、紫式部は後年になって宇治十帖を「自分のために書いたのではないかと思う。」と記しています。  それにしても紫式部と清少納言が同じ時代の空気を吸っていたというの…

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