柔道観戦の楽しみ

 柔道は一度もやったことが有りませんが、ここのところ毎日、夕方のテレビで、オリンピックの柔道観戦を楽しんでいます。敗者復活戦、準決勝、3位決定戦、決勝と熱戦が続きます。相撲は1日1番、水泳も予選、準決勝、決勝と日が別れていますが、柔道は1日に何回も試合があるのには驚きます。延長戦で疲れ果てても数時間後には次の試合があります。選手たちの闘争心の旺盛さに感服します。  大学生のころ、わたしは剣道部に属していたことがありますが、入部して半年ほど経ったころ、先輩から昇段試験を受けてくるよう言われ、試験場に出かけました。対戦相手は警察関係の人でした。どうも相手を叩く気持ちが湧いてこず、自分には闘争本能に欠けるところがあると分かりました。結果は勿論、不合格でした。  柔道といえば、「姿三四郎」という言葉がすぐ思い浮かびます。小説の主人公ですが、黒澤明の映画やテレビドラマでおなじみです。柔道を通じての心の成長の物語です。柔道にはいつも精神性ということがまとわり付いています。1964年の東京オリンピックの後には、オランダのヘーシンクに負けた日本国民の心の傷を癒すように、美空ひばりが唄った『柔』という歌が流行りました。    勝つと思うな 思えば負けよ    負けてもともと この胸の・・・  テレビを見ていると、フランス、イタリア、ロシア、コソボ、モンゴル、ジョージアなどいろいろの国の選手が登場します。それだけ柔道が普及している証拠なのでしょう。そういえばロシアのプーチン大…

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東京オリンピックの記憶

 オリンピックが始まりました。今回は最初から種々の不手際が多く、コロナ禍もあり盛り上がりに欠けるようです。前回の東京オリンピックは 1964年で、わたしは高校1年生でした。51歳だった母親は東京にいた長男に呼ばれて、チケットの取れた、何だったか名前の知れない競技の観戦に出かけていました。多分、出来たばかりの新幹線にも乗ったのでしょう。  10月10日の開会式では延々と続く各国の選手団の入場の様子を珍しげに観ていた記憶があります。田舎の高校生ですから、こんなに多種類の外国人など見たことも無かったことでしょう。テレビは白黒だったはずですが、後から見た画像の影響かトラックの煉瓦色が目に浮かびます。  三宅義信選手の活躍で重量挙げという競技を知りました。何か白い粉を手につけてバーベルを挙上するだけの運動ですが、なぜか引き込まれて見続けてしまいました。まるで一人芝居の演者のようでした。オリンピックで初めて知ったというスポーツは、その後もいくつかあったと思います。  体操では遠藤幸雄選手のつり輪が思い出されます。つま先までピンと伸びた十字懸垂の姿です。それにしても現在の選手は、なぜあんなにも捻ったり、手を離したり出来るのか不思議です。女子ではチャスラフスカというチェコスロバキアの選手の気品のある演技は東京五輪の華でした。  ヘーシンクに勝てなかった日本柔道、サロメチールをこめかみに塗って走るハードルの依田郁子、マラソンのアベベ、競技場内で抜かれて3位になった…

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小説を読み解く

   川本三郎が『『細雪』とその時代』(中央公論新社)という本を出したので、楽しみに読んでいます。谷崎潤一郎の小説『細雪』の世界を、色々の切り口から眺め、どんな時代であったか、どんな場所であったかと、小説の背景を解き明かす期待にたがわぬ読み物です。  『細雪』は昭和 11年(1936)から 16年にかけての大阪、芦屋、神戸、東京などを舞台にした、大阪・船場の没落した旧家、蒔岡家の四姉妹を中心とした物語です。  「船場」というのは <豊臣秀吉が大坂城を築城した時、商人たちを集めて作った町。東は東横堀川、西は西横堀川、南は長堀川、北は土佐堀川に囲まれ、碁盤の目のように整っている> 大阪では由緒ある商業地のことです。船場を南北に貫いているのが大通りの堺筋です。  大正 12年(1923)の関東大震災の後、大阪は大正 14年には人口 211万人を数え、東京市を超え全国一となり、一大産業都市に発展します。昭和元年の全国総生産額では阪神工業地帯が 30.2%を占め、京浜工業地帯は 18.1%だったそうです。  結果、大阪は煤煙の町となり、居住に適さなくなり、大きな商家では環境の良い郊外として、六甲山の麓、阪神間に居宅を移すようになったそうです。職住分離です。東京・日本橋生まれの谷崎も横浜に居て、大震災で被災し、関西に移住し阪神間に住むようになります。  谷崎はそこで、隣家に住む船場の綿布問屋の夫人・松子と知り合い、結婚することになります。『細雪』は松子夫人たち…

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マーラーの音

 一度、マーラーの交響曲を第1番から第9番まで順番にたどってみようと、ここ2週間ほど、毎日のように聴いてみました。彼の交響曲は長大なのが多く、また感情移入しにくいのもあり、ゆっくりとした時間がとれる現在にふさわしい楽しみかと、取り組んでみました。  そして、何か新しい発見があるかも知れないと期待して、手持ちの CDのうち、今まであまり聴いてこなかったものを選んでかけることにしました。  G.マーラーは 1860年、オーストリア帝国(現在ではチェコ)生まれで、日本でいえば万延元年で、森鷗外より2歳年上です。鷗外がドイツ留学でベルリンに居たころ、マーラーは交響曲第1番を作曲中でした。また、トーマス・マンの小説『ヴェニスに死す』はマーラーもモデルになっているようです。  1971年のヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』では、マーラーの交響曲第5番の第4楽章が使われ、映画音楽として評判になりました。彼の音楽が一般的になったのは、その頃からのようです。ちなみに 1910年9月、ミュンヘンで交響曲第8番がマーラー自身の指揮で初演された時には、会場にトーマス・マンもいたそうです。  マーラーの曲では突然、天の声のようにラッパが鳴り響いたり、葬送曲が始まったり、感傷的なメロディが出て来たり、おもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気がありますが、いつも「死と再生」が意識されているようです。  また、マーラーの曲を聴いていると、シャガールの絵が思い浮かぶことがありま…

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ハモの季節

 和歌山市の名草山の中腹にある紀三井寺の境内からは、海の向こうに沼島(ぬしま)が見渡せます。沼島は淡路島の南部にある離れ小島で、400人ほどが住んでいます。対岸の淡路島の土生港へは連絡船で 10分ほどです。わたしは上陸したことはありませんが、家内は中学生の時、クラブの合宿で行ったことがあるそうです。和歌山市と徳島市を結ぶフェリーに乗ると、間近に沼島が見られます。  『古事記』で伊耶那岐(イザナキ)の神が天の沼矛(ヌボコ)で海をかき回し、「引き上げたまふ時に、その矛の末より垂り落つる塩の累り積れる、嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。」*    というオノゴロシマは沼島だという説があります。  夏になると、沼島ではハモ(鱧)漁が盛んになり、ハモ料理の店も数軒あります。ハモは日本の中部以南にすむアナゴに近い磯魚で、瀬戸内海に多いそうです。アナゴより大きく、歯がきつく、やたらと噛み付く魚なので「食む」がなまってハモになったという説もあるそうです。関東では獲れないので関心がないようですが、関西では夏の料理として知られています。身にそって縦にある小骨を「骨切り」します。昔から「一寸(3.3㎝)の身を二十五に切れ」と板前は教えられるそうです。**  湯引きを梅肉で食べる、天ぷら、すましに入れるなど色んな食べ方がありますが、わたしは骨で出しをとり、肉厚なのを鍋にして食べるのが好みです。以前は淡路島の魚屋さんから送ってもらったり、兄が送ってくれたりしていたのですが、7月になり、そろ…

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