詩人の思い出

   青年のころに詩に興味をもった人は多いかも知れません。立原道造の詩もよく読まれていました。『我が愛する詩人の伝記』(講談社文芸文庫)で室生犀星は、< 立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。 > と書いています。追分で暮らしていた立原は軽井沢の犀星の家によく来ていたそうです。  < 私の家を訪れる年若い友達は、めんどう臭く面白くない私を打っちゃらかしにして、堀辰雄でも津村信夫でも、立原道造でも、みんな言いあわせたように家内とか娘や息子と親しくなっていて、余り私には重きをおかなかった。茶の間で皆が話をしている所に、突然這入ってゆくと皆は私の顔を見上げ、面白いところに邪魔者がはいって来た顔付をして、お喋りをちょっとの間停めるというふうであった。 >  < 立原道造は、顔の優しいのとは全然ちがった、喉の奥から出る立派な声帯を持っていた。話し声や笑い声はすでに大家の如き堂々たる声量を持っていて、時々、私はその立派やかな太い声に、耳を立て直すことがあった。 > 立原はその詩語の繊細さや、写真で見る細面の顔つきとは、少しイメージの違う声だったことが知られます。    「のちのおもひに」 立原道造   夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に   水引草に風が立ち   草ひばりのうたひやまない   しづまりかへつた午さがりの林道を   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた   ーーーそして私は   見て来たものを 島々を 波を …

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春の散歩

 すっかり春になったので、久しぶりに紀ノ川の堤を散歩しました。土手には黄色いタンポポが咲き、空ではさかんにヒバリが囀っています。川面はきらめき、河川敷では子供たちがボール遊びをしています。しばらく歩くと皮膚が焼け、ビタミンDが産生された気がします。  今年の冬は寒さとオミクロン株で、引きこもっていました。川べりの道には同年代の同じような散歩者が行き交っていました。   萠(も)ゆるものなべて幼く春の日の       光のなかに紛(まぎ)るるもあり (吉植庄亮)  本を読んだり、音楽を聴いたりしているだけでは、筋力が落ちてきます。わたしは元々、握力が 25Kgくらいしかありません。先日読んだ『「顔」の進化』*という本によれは、チンパンジーのオスは握力が 300Kgもあるそうです。人間の成人男性が 40Kg位なので < 力は「七人力」ともいわれる。実際に、京都大学教授であった、故・西田利貞氏は、野外調査で仲よくなったチンパンジーに肩をつかまれて、ポイッと放り投げられた。まるで、人間が猫を扱うように。オスのチンパンジーは体重が 55Kgほどしかないが、それにもかかわらず異常なほど力持ちに思われるのは、逆に私たちの筋力が低下して虚弱になったからと考えられる。 > と書いていました。  なるほど、わたしたちは進化の過程で失ったものも多くあったのでしょう。そして、筋力の代わりに知力を手に入れたはずですが、世界の報道に接していると、なぜ暴力が絶えないのか不思議に思われま…

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詩人の伝記

  同業者が同業者のことを書くというのは、それなりに難しい面があるのでしょう。室生犀星は『我が愛する詩人の伝記』で高村光太郎の項を書き始めるについて、< 高村光太郎の伝記を書くことは、私にとって不倖な執筆の時間を続けることで、なかなかペンはすすまない、高村自身にとっても私のような男に身辺のことを書かれることは、相当不愉快なことであろう。 > と書き出しています。  犀星は昭和 33年(1958)、69歳の時、「婦人公論」に「我が愛する詩人の伝記」を連載し始めています。第1回は北原白秋について。高村光太郎は第2回です(光太郎は2年前に他界していました)。  < 私は高村にかなわないものを感じていた。年少なかれが早くも当時の立派な雑誌『スバル』の毎号の執筆者であることは、私の嫉みのもとであった。 > 光太郎は犀星より6歳年上でした。  田端で下宿生活をしていた犀星の散歩区域に光太郎のアトリエがありました。犀星は光太郎と知り合いになりたくて、そのアトリエを訪ねます。  < 私はある日二段ばかり登ったかれの玄関の扉の前に立ったが、右側に郵便局の窓口のような方一尺のコマドのあるのを知り、そこにある釦を押すと呼鈴が奥の方で鳴るしかけになっていた。(中略)私はコマドの前に立っていた。(中略)コマド一杯にあるひとつの女の顔が、いままで見た世間の女とはまるで異なった気取りと冷淡と、も一つくっ付けると不意のこの訪問者の風体容貌を瞬間に見破った動かない、バカにしている眼付きに私は…

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「顔」のでき方

良くできた科学読み物は事実を羅列するだけでなく、事実と事実の間に物語を見つけて語り、読者を驚かせ、新しい世界を見開かせてくれます。  池澤夏樹が毎日新聞の 2021年「この3冊」に馬場悠男『「顔」の進化』(講談社ブルーバックス)を選んでいたのを見て、新書本が選ばれるのは珍しいと興味をもち読んでみました。  著者は 1945年生まれの人類学者で、国立科学博物館に所属しています。「あなたの顔はどこからきたのか」と顔の進化を解き明かしていきます。例えば、ウマが馬顔で、ネコが丸顔でなければ生きていけない理由を生物学的に答えようとしています。  そもそも、植物は光合成によって自分で栄養を作れますが、動物は作れないので、他の生物を暴力的に体内に取り込む必要があります。   < 左右相称の動物は、一般に、決まった方向に比較的速く動く(速く動くために左右相称になったともいえる)。その方向が「前」になる。前端が、変化しつつある外界に最初に出会うのだ。食物に最初に近づくのも前端である。したがって、前端に口があり、そのほかの感覚器も集中することが望ましい。 > つまり、餌を探し捕らえるためには、あるいは餌にされないためには、感覚器の発達が欠かせない。それが顔のはじまりです。  イヌは匂いをたどって獲物を追い詰め、見えない敵の存在を知る。イヌの鼻の先端には鼻鏡という、いつも濡れているゴムのような部分があります。< 鼻鏡の存在は、そこに吸着した匂い分子を、舌で嘗めて口に運び…

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ユーラシア漂泊

 やっと春めいてきて、新型コロナウイルスも感染者数が減少しつつあるようです。少し気分が安らぎます。一方、ウクライナでは風雲急を告げています。  ウクライナで思い出すのは横綱・大鵬のことです。大鵬は1940年、樺太でウクライナのコサックの三男として生まれています。日本の敗戦によって、大鵬は日本人の母親と共に北海道へ引き揚げて来ました。父親はソ連軍に収容されたようです。  わたしの子供時代(1960年代)、「巨人・大鵬・卵焼き」と揶揄されたように、大鵬は人気が高く、優勝32回と実力も抜きん出ていました。  コサックといえば「ステンカ・ラージン」というロシア民謡にも唄われるように、ロシアとの関係は長年にわたって流動的だったようです。日露戦争では日本人はコサック騎兵隊に苦しめられています。ロシア革命ではコサックは皇帝側の白軍としてボリシェヴィキの赤軍と戦い、破れて弾圧・流刑されています。  司馬遼太郎は『ロシアについて』(文藝春秋)で <コザックについては、/「ロシア人の顔をしたタタール人」/という印象が、かって存在した。(中略)しかしコザックを種族と見るのは力点の置きちがえで、かれらは歴としたロシア人ながらもロシア人一般とは文化を異にする漂泊(定住している者もいた)の辺境居住集団と見るほうがいい。辺境にいるためタタール(トルコ人やモンゴル人)とは多少の混血があったかもしれないが、(後略)> と書いています。  ユーラシア大陸の西方からやってきたコサックの…

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