紀伊半島の一隅で
紀伊半島の付け根を東から西に流れる紀ノ川の中流域に、名手(なて)という町があります。有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』の舞台となった所です。江戸時代、名手には参勤交代のおり紀州藩主が泊まる本陣(妹背家)がありました。青州の妻・加恵は妹背家の出身です。
華岡青洲(1760-1835)は江戸時代末期の医師で、若い頃から中国・後漢の華陀が麻沸散という麻酔薬を使って手術をした故事に興味を持ち、研究を重ね、マンダラゲ(朝鮮朝顔/エンジェルストランペット)を主成分とした麻酔薬の開発に成功しました。
有吉の小説では青州が麻酔薬の開発実験を犬や猫で行い、最終的に人体に試すに当たって、母親(於継)と妻(加恵)が嫁姑の確執の中で、実験台になる経緯が詳細に描写され、小説の核心となっています。
<少量の焼酎(しょうちゅう)が湯で割って湯呑みに入れてあった。青州が手の中にあった紫色の紙をひらくと、包まれていた赤黒い散薬が現れた。/「僅(わず)かなものやのし」/於継が云った。加恵に聞かせて安心させるには少し針のある言葉だった。/「これは仮の名を通仙散(つうせんさん)とつけましたのや。生(なま)なら一抱えある薬草を煎じ煮つめて、乾かしかためたのを、更に叩(たた)いて粉にしたものやよって、呑み安(やす)い筈(はず)ですのや」/酒臭い湯を口に含んでから、加恵は夫の云うままに仰向いて唇(くちびる)をあけた。青州が片手を妻の頤(あご)にかけ、通仙散を服用させるのを、於継は身動きもせずにじっと見詰…