坂道の記憶

 東京には住んだことがないので、街の構造がなかなか分かりません。用事で出かけた場所を少し覚えているだけで、点が線にならず、面としての東京がイメージできません。  また京都なら碁盤の目で、位置関係が分かりやすいですが、東京の道は曲がっていて、アップダウンもあります。神戸なら坂があっても、下りはほとんど南向きで、海に通じていますが、東京の坂道はどっち向きか分かりません。  白洲正子の「東京の坂道」*を読んでいると、< 俗に「山の手の坂、下町の橋」と呼ばれる > と書かれていて、なるほどと思いました。  そのなかで白州は < 長男が生まれたのも赤坂氷川(ひかわ)町で、今の赤坂六丁目のあたりである。「氷川坂」の崖下の、日当たりの悪い家だった。坂を登った所に、氷川神社があり、よく乳母車をひいて散歩に行った。(中略)/ 氷川神社は、村上天皇の天暦(てんりゃく)五年(九五一年)に一ツ木のあたりに創建され、八代将軍吉宗のとき、現在の地に移されたという。オオナムチノ命(みこと)と、スサノオノ命、クシイナダヒメを祀(まつ)っているのは、出雲(いずも)系の神社であることを示しており、してみると、氷川は出雲の箙(ひの)川から出た名称に違いない。> と記していました。  そういえば、わたしも十数年前、近くに泊まったことがあり、朝の散歩をしていたとき、氷川神社や「忠臣蔵」の"雪の別れ”の南部坂があったのを思い出しました。その時は勝海舟の談話録『氷川清話』を読んだあとだったので、勝海舟は…

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人間らしくやりたいナ

 自伝というのはあるていど齢がいってから書けば、余裕をもって若かった頃が回顧できます。また、登場人物も既に他界していたりして、気兼ねなく描けるという面もあるでしょう。  開高健は自伝的小説『青い月曜日』を 34歳で書き出しており、戦中・戦後を生きた、まだ生々しい記憶を無理やり言葉で定着させようとする迫力があります。鮮烈な色や鼻をつく臭いに溢れていて、汗や血や分泌物で書かれた文章のように感じられます。  開高健は昭和5年(1930)に大阪で生まれています。中学生時代は第二次世界大戦の最中で、勤労動員により鉄道の操車場へかり出されています。毎日のようにグラマン P51の機銃掃射がありました。ある日は逃げ遅れ、田んぼに逃げ込みます。  < その瞬間、頭を削るほど低く”熊ン蜂”が疾過した。薄い泥の膜ごしに目が一瞬に多くのことを見た。(中略)機首には黄や赤や青のペンキでポパイが力こぶをつくっている漫画が描いてあり、機関砲がはためいて火を噴いていた。(中略)防弾ガラスごしに操縦席の男がはっきりと見えた。巨大な風防眼鏡(めがね)にかくされている頬が信じられないほどの薔薇いろに輝き、快活に笑っていた。人は人を殺すときに笑ったりするのだということをはじめて知らされた。>  < 夜になると空襲がある。サーチライトで蒼白に切り裂かれた乱雲のなかをB29の大編隊がゆうゆうとわたってゆく。爆弾と焼夷弾の大群が落下しはじめる。一筒一筒の爆弾が空から鋼線をつたいおちるような悲鳴をたてて殺…

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秋だから

 秋が深まってきました。散歩をしていても木々が黄葉し、落葉を踏んで歩くことになります。この季節になると、思い出す唄があります。「秋だから」とふと口ずさんだりします。長谷川きよしの澄んだ声とギターの音色が、耳に蘇ります。  彼はわたしと同じくらいの歳ですが、レイ・チャールズやホセ・フェリシアーノと同じように盲目です。1969年に「別れのサンバ」で注目されました。  彼はサングラスをかけていますが、歌手の浅川マキに知り合って間もないころ、< 「あのね、きよし、サングラスかけてないでしょ? 私はかけた方が絶対もっとイロッポク見えると思うんだ」> とアドヴァイスされたそうです。< 僕はその頃若かったし、かなりつっぱっていたので、目がみえなくても普通の人と何も変わらないのだ。サングラスなんかかける必要ないじゃないかという考えでした。(中略)/言いにくいことをすっぱり指摘してくれたのです。> と彼は浅川マキ追悼文集のようなもの*に書いています。後に彼は初めての子供に「マキ」という名をつけたそうです。    秋だから    ひとりであてもなく    街を歩いてみたいの    落葉の舞う鋪道を     コツコツとなる    靴音だけをききながら          (作詞 葵 梨佐)  何ともない唄ですが、そういえばそんな時代もあったと思い出します。喫茶店に入ったり、手紙を書いたりはしなくなったと思いあたります。そして、秋だからといって、何かが起こるわけでもないと…

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旅立てジャック

 先日、YouTubeで「村上RADIO」がレイ・チャールズを特集したのがあったので、聞いていてビックリしました。レイ・チャールズはわたしも十代の頃から聴いていましたが、彼の代表曲のひとつの「旅立てジャック HIT THE ROAD JACK」について、これはダメ男を女の人が「出て行け!」と追い出している唄だと解説していたのです。  たしかに歌詞を読んでみると、そんな雰囲気です。なんとなく独り立ちする少年の旅立ちを唄っているのだと、60年近くも誤解していました。女性の声が And don’t you come back  no more ,no more と繰り返す意味がやっと分かりました。  1960年代に「旅立てジャック」と邦題をつけた人は歌詞の内容が分かっていたのか疑問ですが、「出ていけこの野郎」の題では当時の青少年に受け入れられたかどうか怪しまれます。  手持ちのCDに付いている解説で湯川れい子は < 実はその当時の奥さんと大ゲンカした際、彼女から言われた'HIT THE ROAD!(出て行け!)'という言葉から生まれた曲(中略)だったとか、色々な逸話がある > と書いていました。  彼が亡くなった2004年に公開された『RAY』は彼の伝記映画でした。いつだったかテレビで見たのですが、夫婦喧嘩の場面もあった気もしますが憶えていません。彼が薬物依存に苦しんでいた様子が印象に残っています。  彼を教えてくれたのは高校時代の友人ですが、以来…

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柿 あれこれ

 紀ノ川べりでの散歩のあと、道の駅で富有柿を買ってきました。紀ノ川流域は柿の産地です。柿は元々はすべて渋柿で、突然変異で甘柿ができたそうです。日本で初めて甘柿が見つかったのは、1214年、相模国でのことだそうです。    里古りて柿の木持たぬ家もなし (松尾芭蕉)  渋柿には水溶性タンニンが含まれていて、舌の粘膜と結合するのだそうです。アルコールなどによる渋抜きは、タンニンを不溶性に変化させ、粘膜にくっ付かなくするのだそうです。    渋かろか知らねど柿の初ちぎり (千代女)  夏目漱石は『三四郎』で < 子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。> と書いています。樽柿というのは酒樽に柿を詰めて、アルコールで渋抜きしたものです。正岡子規は松山出身なのですが、西条柿だったのでしょうか。    渋柿や古寺多き奈良の町 (正岡子規)  寺田寅彦に『柿の種』という短文集があります。松根東洋城の主宰する俳句雑誌「渋柿」に連載したエッセイを纏めたものです。東洋城は松山での漱石の教え子で、紹介され子規の弟子になっています。宮内省に勤務していたおり、大正天皇から俳句について尋ねられ、「渋柿のごときものにて候へど」と答えたそうです。  秋の陽光を浴びて輝く柿の実を、しばらくは朝の果物として楽しみます。 #「はやり病の今昔」https://otomoji-14.…

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