紀伊半島の初夏

 新聞によれば、今年は紀南地方の漁港でカツオがよく獲れているそうです。2000年には漁獲量 1957.5トンだったのが、2014年から不漁が続き、2018年には 138.6トンにまで減少していました。北上する黒潮が蛇行して、紀伊半島から離れたのが原因といわれていました。  昨年は 172.8トンでしたが、今年は既に4月までの4ケ月で 253.0トン獲れているそうです。  周参見(すさみ)を中心として紀南地方では、「ケンケン漁」という疑似餌によるひき縄漁が盛んで、獲れたカツオは「ケンケン鰹」と呼ばれています。カツオが戻って来てくれたのはうれしい便りです。夕食に食べるカツオの刺身は、紀南地方の格別な食べ物です。  紀南の海岸では、そろそろアカウミガメの産卵も始まっていることでしょう。以前、当地にやって来た義父に、ウミガメの話をすると、「あの卵はまずい!」と言っていました。戦時中にボルネオで食べたのだそうです。 紀ノ川や日置川では、先日、鮎釣りが解禁になりました。アユはまだ15センチ程と小さいようですが、台風が来て川底が攪拌されると藻の成育がよくなり、アユが成長するそうです。  紀伊半島の南部、古座川の上流、滝の拝ではアユを引っかける「トントン釣り」という漁法があります。新鮮な鮎を塩焼きにすると、香りもよく、季節を感じさせる食べ物です。  一昨日は紀ノ川ベリを散歩しましたが、ツバメの巣を見かけました。燕のこども達が食事を待っていました。もう今年は梅雨に入り、台風も…

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神戸のこと

 先日、甥の結婚式があって、久しぶりに神戸に出かけてきました。淡路島生まれの人間にとって神戸は県庁所在地であり、買い物や進学、就職など繋がりの強い街です。わたしの母方の曽祖父も家内の父親も神戸で生まれています。わたしの兄たちも家内も阪神間の高校や大学へ進学しています。  わたしがこどもの頃の昭和30年代は神戸の中心は元町で、連れていってもらう百貨店は元町の大丸でした。その後、ひと駅東の三宮が賑わうようになり、昭和40年に三宮に地下街(さんちか)ができました。高校生の時、三宮駅前のそごう百貨店に「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さんのヨット「マーメイド号」が展示されていたのを憶えています。駅横の新聞会館では「ドクトル・ジバゴ」などの映画を見ました。映画を見終わって島へ帰ろうと港へ行くと、濃霧で船が出ず、翌日の定期試験にまにあわなかったこともありました。  神戸からの来客のお土産は、小学生の頃は亀井堂「瓦せんべい」、高砂屋「きんつば」などが多く、その後は風月堂「ゴーフル」、ユーハイム「バウムクーヘン」、モロゾフのチョコレートなどに変わったように思います。子供のとき食べた「きんつば」が懐かしく、食べたいと思っているのですが、機会が訪れません。  街を歩くと、いろんな思い出が蘇りますが、小学生低学年の頃、両親に連れられて神戸で昼食を食べていたとき、母親が突然、「あなたはいつも、今日はどこそこのレストランでなになにを食べて美味しかったと言ってるのに、なぜ今日はラーメンなの!」と怒りだした光景…

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落語家の世界

 落語の実演といえば、20年以上前に新宿末廣亭に入ったことがあるのと、桂米朝・小米朝の落語会に行った憶えがあるだけです。こどもの頃はラジオやテレビで、落語や浪曲、講談をよく聴きました。金馬、円生、小さんなどのほか名前も忘れた多くの芸人が出演していました。  こどもにとって「いかけ屋」とか「饅頭こわい」などは分かりやすく、人間の生態が生々と捉えられていて愉快でした。八っつあん、熊さんの世界は破天荒で、それでいて楽園のようで、枕元のラジオから聞こえてくる話芸の楽しさに浸りました。  立川談春『赤めだか』(扶桑社)は、”いかにして落語家になったか”という落語のようなお話です。立川談春は昭和41年、東京生まれで、子供のころから父親について戸田競艇場に通っていたそうです。競艇選手になりたかったのですが、養成所へは身長170センチ以下でなければ入れず断念したそうです。  中学生のとき図書室で落語全集を読み興味を持ち、卒業間近のころ、上野鈴本へ行き、立川談志を聴き魅せられます。高校では落研を作り、人前で話す楽しさを覚えます。そして、国立演芸場で談志の「芝浜」を聴きショックを受けたそうです。 「芝浜」というのは、裏長屋住まいの魚屋が、芝の河岸で革の財布を見つけるというところから始まる人情噺です。談志の「芝浜」の評判を聞き、わたしも CDを買って聴いた覚えがあります。まだYouTubeなどなかった昔です。  佐々木少年(談春)は談志の家を訪れ、弟子入りを乞う。  < 君の今持…

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カッケと肉ジャガ

 日本には江戸時代から、脚気(かっけ)という病気がありました。足がだるく、むくみ、動悸がし、心臓麻痺となる。江戸、大坂などの都会に多く、「江戸わずらい」とよばれました。将軍も家光、家定、家茂が脚気で亡くなったそうです。  吉村昭『白い航跡』(講談社)は、脚気の原因解明に寄与した高木兼寛(たかきかねひろ)という人物の伝記小説です。兼寛は嘉永2年(1849)、日向国(宮崎県)に大工棟梁の子として生まれています。鹿児島で蘭方医に学び、幕末には薩摩藩の軍医として戊辰戦争に従軍しています。  戦争のなかで、蘭方医が銃創などには手をこまねるばかりなのに対し、西洋医が果断に切開、切断などの処置で、戦傷者を救っているのを見て、兼寛に西洋医学への渇望が生まれます。  帰郷後、鹿児島でイギリス人医師に学び、招かれて東京の海軍病院に勤めることになります。そこで見たのはおびただしい脚気患者でした。明治11年には海軍総兵員数4,518名でしたが、脚気患者数は1,485名にものぼり、兵員の32.79%にもなり、死亡者数32名でした。こんな状態が続いていましたが、西洋には同様の病気はなく、原因不明の日本の風土病と考えられていました。  明治8年(1875)から5年間、兼寛は推薦されロンドンのセント・トーマス病院に留学しました。イギリスに脚気はありませんでした。  帰国後、兼寛は脚気の発生状況を調べるうちに、軍艦「筑波」の練習航海の記録に注目しました。「筑波」は明治11年、オーストラリアへ7ケ月間の…

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鯉のぼり

 5月になりましたが、少子化の影響か、近所には鯉のぼりが少なくなった気がします。わたしの父親は義太夫を習っていて、「鯉昇」という名前をもらっていました。そのせいか「のぼり」は「鯉の滝昇り」と思ってしまうのですが、「のぼり」は"幟"なのだそうです。確かにそのほうがふさわしいようです。     「こいのぼり」    やねよりたかい こいのぼり    おおきいまごいは おとうさん    ちいさいひごいは こどもたち    おもしろそうに およいでる           (作詞 近藤宮子 1931年頃)  ここで、アレッと思ったのは、緋鯉が子供たちになっていることです。緋鯉はお母さんと思っていました。緋鯉がお母さんになり、青い小さな子供の鯉が付けられたのは戦後になってからだそうです。  わたしは末っ子だったので、もう色のはげかかった鯉のぼりを、二度ほど庭のすみに揚げてもらった記憶があります。わたしのこどもたちには、鯉のぼりを泳がせるほどの庭もなく、何回かベランダに飾りました。孫たちの家ではそんな習慣も途絶えているようです。     「鯉のぼり」    甍(いらか)の波と雲の波    重なる波の中空(なかぞら)を    橘(たちばな)かおる朝風に    高く泳ぐや鯉のぼり       (作詞者 不詳 1913年)   「江戸っ子は皐月(さつき)の鯉の吹き流し 口先ばかりで 腹わたはなし」ということばがありますが、新学期が始まって一ヶ月がたち、前の道を下校する…

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