天空の音楽

 秋めいてきて、ピアノやヴァイオリンの独奏や室内楽を聴くのも相応しいですが、一方で大規模な交響曲を部屋に響かせるというのも音楽の楽しみのひとつです。ハイドンから 250年、いろんな交響曲がありますが、何を最も好んでよく聴いているかといえば・・・。  わたしの場合は、ブルックナーの交響曲第7番です。初めて聴いたのは40歳ごろで、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮、ウィーン・フィルの CDでした。こんな音楽があるのかと不思議な気がしました。それまで聴いていたモーツァルトやベートーヴェンが人間的な感情に溢れているのに、ブルックナーの交響曲には人間臭さが感じられず、天上的というか宇宙的ともいうような響きに聴こえました。  第1楽章は、現れては消える極地のオーロラを仰ぎ観るような感覚になります。実物のオーロラは体験したことはありませんが、非人間的な美しさです。第2楽章は夕焼けの中で落陽の光を浴びるているような気持ちが雲海のように湧いてきます。第3楽章は波のうねる大海を航海しているように体が弾みます。第4楽章では高原を散策している爽やか気分に浸されます。なにか手付かずの大自然と向き合っているような厳粛さに包まれます。  ブルックナー(1824-96)は日本でいえば幕末から明治を生きたオーストリア人です。作曲家には神童といわれる早熟な人が多いですが、ブルックナーは晩成で、40歳を過ぎてから作曲家として世に出たようです。また日本で彼の曲が聴かれるようになったのは、戦後になってからで、彼の交響曲が…

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詩人のたそがれ

 若い頃からときに詩集を読むことがありましたが、詩集にはたいてい 20~30篇ほどの詩が載っていますが、気に入る詩篇は一冊に1〜2篇あればいいほうで、ほとんどはただ読むだけです。、120ページほどの詩集で、印象に残るのはほんの数ページです。  これは誰の詩集でも大差なく、そんなもので、詩人が一生に何冊の詩集を出すかはそれぞれですが、詩人が一生に書く詩のなかで、人のこころに残るのは、ほんの数篇でしょう。そういう意味で詩集というのはコスト・パフォーマンスの悪い書物です。名篇とされるものを集めたアンソロジーが編まれるのにはそれなりの理由があります。  しかし詩集には詩人が一定の時期に書いた詩を集めたという特色があります。気になる詩人の最新の詩が読めるという期待、また後では「あの詩人は 60代のころこんな詩を書いていたのか」という興味など、アンソロジーとは違った楽しみもあります。  この間から田村隆一(1923-98)の手持ちの詩集を読んでいますが、買った時にも見たはずですが、全くと言っていいほど、記憶に残っている詩句には出会いません。彼の初期の研ぎすまされたような言葉は強く脳裏に刻まれているのですが・・・。  『生きる歓び』(集英社)は 1988年刊行で、田村隆一は 65歳でした。       沈黙の音     北米中西部の秋は淋しい     淋しいという言葉さえ浮んでこないくらい     淋しい     ある日     ニレの木の     カシ…

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ピアノの日記

 まだ暑い昼下がり、久しぶりにショパンのマズルカを聴きました。マズルカというのはショパンの故郷・ポーランドの民族舞曲で、4分の3拍子のリズミカルな曲調です。ショパン(1810-49)は青年期から生涯に渡って 60曲近いマズルカを作曲しています。1分たらずのものから長くても6分くらいの短い曲ばかりです。続けて聴いていると、なにか日々の日記を読んでいるような気持ちになり、こころの隙間に入り込んでくる感じがします。  ショパンのマズルカを初めて聴いたのは 20歳ごろで、アダム・ハラシェヴィチというピアニストのレコードでした。ワルツとかバラード、エチュード、前奏曲などいろいろの曲があるのに、どういう訳か派手さのないマズルカが耳に残りました。ショパンが日々の思いをピアノでつぶやいているような雰囲気があります。  かといって、マズルカの CDを取り出したのは数年ぶりでした。ショパンのつぶやきをそんなに聞いてみようと思う時がある訳ではありません。音楽を聴くのは、それで気分がよくなるからでしょうが、それは依存とも思われます。その人にとって、こんな時はこの曲が・・・といった選択があるのでしょう。  ショパンは20歳のとき、ウイーンへ出かけ、その間にポーランドが政治的混乱状態となり、戻れなくなり、パリへ行くことになりました。結局、彼はそのまま二度と故郷には帰りませんでした。ワルツや夜想曲などのサロン的な曲の合間に、日記のようにマズルカを書いていたのでしょう。 #「チェロの音色」https:…

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言葉の錬金術師たち

 文字数の多い本は暑くるしいので、本箱の奥から田村隆一『ワインレッドの夏至』(集英社)という詩集を取り出しました。余白が多くて涼しげです。    「おれ」を表現するためには    沈黙を創り出す以外にない    樹木の枝からたわわに垂れさがる果実     のごとき沈黙*   こんな詩句が目に止まります。いかにも手なれた、老詩人の手品のような表現です。この詩集は 1985年に出版され、田村隆一は 62歳でした。  「アンライセツとは どういう祝日ですか」 八十八歳でこの世を去った  詩人の西脇順三郎が  ある夏の日  教え子の英文学者に真面目な顔をしてたずねたそうだ  「アンライセツ? 紀元節、天長節、明治節なら、ぼくにだって分  りますけど どういう字をかくのでしょう」  四十男の英文学者は、キョトンとした顔でききかえす  「平安の安に、未来の来です やすらかな世が到来するのを祈願す る祝日 じつにひ'び'き'がよろしい」  このエピソードを聞いて  ぼくが小学生時代に父につれられて  浅草の花屋敷で観た「どじょうすくい」を思い出す  昭和五年あたり                (中略)    父は農家の次男坊だったから    休日に「安来節」を聞くのが超現実主義の詩を読むよりも    詩的歓びだったにちがいない**       (後略)  西脇順三郎はこの詩集の出る3年前の6月に亡くなっていますので、これは田…

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