詩の可能性


 現代詩との出会いは、30代の詩人・田村隆一が書き、10代のわたしが脳裏に刻んだ詩句・・・


   雪のうえに足跡があった

   足跡を見て はじめてぼくは

   小動物の 小鳥の 森のけものたちの

   支配する世界を見た

   たとえば一匹のりすである

   その足跡は老いたにれの木からおりて

   小径を横断し

   もみの林のなかに消えている

   瞬時のためらいも 不安も 気のきいた疑問符も そこには

   なかった


   また一匹の狐である

   彼の足跡は村の北側の谷づたいの道を

   直線上にどこまでもつづいている

   ぼくの知つている飢餓は

   このような直線を描くことはけつしてなかつた*

                    (後略)


 しかし 16年が経って、田村隆一は詩集『誤解』(集英社1978年刊)に書き付けます。



   ぼくの不幸は抽象の鳥から

   はじまった

   その鳥には具象性がなかった

   色彩も音もなかった

     (中略)

   ぼくは幻を見る人ではない

   幻を見たかつただけだ

   空から小鳥が墜ちてくる

   この空も

   あの小鳥も

   抽象にすぎない

   空と小鳥が抽象だつたのは

   ぼくの不幸だ

   不幸を大切にする以外に

   ぼくにはぼくの生を見つけることができなかつた

   不幸が抽象性からぬけ出して

   色彩と音を生み出してくれるまで**

       


 人が青年から壮年に変化してゆく過程が語られています。確かに多くの青年の不幸は抽象的なものだと、振り返ることが出来るかも知れません。では壮年の具象的で具体的な生活の中で、詩を書き続けることは可能なのでしょうか? 田村は 1980年刊行の詩集『水半球』(書肆山田)では・・・



   坂口謹一郎博士に

   「何處へ行くかわれらの酒」

   というエッセイがある

   

   酒の行方も分らないくらいだから

   詩の行方だって分かりようがない

   古代の濁り酒は

   米を口中にふくみ乙女の唾液で発酵させたそうだ

   晩秋初冬



   信濃川と魚野川の合流するところ

   小千谷(おじや)の町があって

   その古い町並を歩いていたら



   西脇商店という小千谷ちぢみの

   老舗があって大番頭さんから名品を見せてもらった

   値段のつけようもない反物で



   原料は苧麻(からむし)の靭皮からとった

   青苧(あおそ) その糸も乙女の唾液で横糸と

   縦糸とが生れるという



   われらの詩は神の唾液か

   悪魔の唾液か

   大量殺戮の時代に生れあわせたわれらの詩には



   乙女の唾液はもったいない

   何處へ行くかわれらの死***



 こんな自嘲的な詩句が載せられています。56歳の詩人の苦闘です。和歌、短歌、俳句ではなく、詩が表現する世界が、世間でそれなりの領域を占め得ているのか、今は疑問です。島崎藤村の『若菜集』から 120年しか経っていませんが、詩人たちはどこにいるのでしょう。



*  詩集『言葉のない世界』1962年刊「「見えない木」

** 詩集『誤解』1978年刊「物と夢について」

***詩集『水半休』1980年刊「何處(いずこ)へ行くかわれらの詩」



田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1) 作者: 田村 隆一 出版社: 思潮社 メディア: 単行本

この記事へのコメント

  • 駄洒落好きな庭師

    田村隆一の詩で正午、幻をみる人という作品、今も気に入ってます。ブログにて紹介あった同じ本、所蔵しております。
    2023年11月05日 19:14
  • 爛漫亭

    駄洒落好きな庭師さん、最近は現代詩に輝きが
    みられませんね。1970年代ごろまでは綺羅星の如く
    だったですね。
    2023年11月05日 22:12