川本三郎の新刊『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)を読んでいると、<昭和三十年代に活躍し、人気があるなかで若くして引退してしまった女優といえば、日活の芦川いづみ、大映の叶順子、そして松竹の桑野みゆきだろう。> とありました。それで思い出したのですが、わたしが小学生のころ、高校生だった兄の勉強机の前に桑野みゆきの写真が貼ってありました。この兄は器用で、模型飛行機を作っても真っ直ぐ飛ぶし、メジロを飼ったり、蚕を育てたりしていました。他の兄は南海ホークスのファンでしたが、この兄が巨人ファンだったので、わたしも巨人になりました。わたしが中学生のころ、兄は大学受験がうまくいかなかった時は、溜池で鮒釣りをしていました。
この兄は 28歳の夏に、名古屋方面への車での出張の帰り、名神高速道路の路側帯に停まった車の運転席で亡くなっていました。クモ膜下出血でした。服のポケットに伊良湖岬の喫茶店のマッチがあったそうです。わたしは大学生でした。
兄には自転車の後ろに乗せてもらって、隣町の映画館へ連れていってもらいました。わたしは田舎育ちなので、東京生まれの川本三郎のように、青少年のころからいろんな映画が観られたわけではありません。
本書では桑野みゆき主演の映画「明日をつくる少女」(1958年)についての話の中で、原作者・早乙女勝元の脚本担当・山田洋次との出会いの思い出を引用し、<当時、早乙女勝元は葛飾区の新宿(にいじゅく)に住んでいた。ある時、山田洋次を近くの柴又に案内した。/「畑や雑草地だらけの道を柴又駅に出て、すぐ鼻先の参道のアーチ近くをくぐると、両側に草だんご屋やみやげ物屋が何軒か、ひくい軒をつらねていた。客足が少ないせいか、どの店も閑散たるもの。(後略)」(『東京新聞』二〇一〇年、十二月十一日)> と後の「寅さん」の 柴又と「明日をつくる少女」との縁を記していました。年を重ねると、思いがけないつながりに出会い、いろんなことを思い出します。
この記事へのコメント
yoko-minato
ご家族皆さんにとってどんなに無念な
想いだったことでしょうか。
そのお兄様がフアンだった桑野みゆきさん。
懐かしいお名前です。
爛漫亭
ですね。桑野みゆきの写真とか伊良湖岬のマッチとか・・・
30年程して、わたしも伊良湖岬に行ってみましたが、
何となく供養のような気がしました。
そらへい
影響を受ける存在だったのに、早く亡くなられたのは残念でしたね。
それだけに思い出も強いものなのかもしれません。
今、「男はつらいよ」シリーズを見直していますが、
懐かしい俳優さんたち、古い町並み、日本の原点のような景色
人情、見ていると幸せな気分に浸れます。
山田洋二監督は満州引き上げ者で貧しい時に、おでん屋のおばさんに
助けられたことが自分の原点だと言っています。
寅さんを見ていると分かる気がします。
爛漫亭
いたので、青少年のころから何度も出かけていたので、
「寅さん」に2回でてきたのが嬉しかったです。和尚さんの
代役をする場面がありましたね。地方の町がうまく使われて
いるのも楽しいですね。
tai-yama
と同じだったと(もしかしたらそれ以上)。
3拍子揃った選手なので、ヤクルトの山田哲人に近いかな?
mm
ご兄弟の中でも憧れのお兄さんだったのですね。大変早すぎる死。
悲しい思い出ですね。
爛漫亭
三振ショー、ショート・ゴロをカットする守備、自然な
ユーモア・・・ 天然の人にはかないませんね。
爛漫亭
思い出して、たわいもなく楽しいのは子供の頃のことだけ
かも知れませんね。
enosan
やっと今回は発射出来そうな、成功を祈るのみ。
初回3月9日は未定だが早い機会に現地へ行きたいと思っている。
[お願い] 以前からコメントを入れたいと思ったことが
何回かありましたが認証文字が判別できずコメントを
送れませんでした。
5文字目、下絵の線と重なり S とは読み難い。
数字の 8 を変形したような文字に見えるのは私だけなのか。
今回はこの認証文字を天眼鏡で拡大してやっと判別出来ました。
是非 紛らわしくない文字にしていただくことを希望します。
御免なさい。
爛漫亭
変更してみます。ロケットは楽しみですね。南紀の
青空に見事に射ち上がるのを期待しています。