いつだったか毎日新聞の書評欄に、石垣りん『詩の中の風景』(中公文庫)が取り上げられていたので読んでみました。詩人の著者が、心に残った詩を掲げ、その詩についてのエッセイを付けたもので、50篇ほどの色々な人の詩のアンソロジーともなり、詩の解説でもあり、その詩が著者に及ぼした反響の記録ともなっています。たとえば・・・
昨日いらつしつて下さい
室生犀星
きのふ いらつしつてください。
きのふの今ごろいらつしつてください。
そして昨日の顔にお逢ひください、
わたくしは何時も昨日の中にゐますから。
きのふのいまごろなら、
あなたは何でもお出来になつた筈です。
けれども行停(ゆきとま)りになつたけふも
あすもあさつても
あなたにはもう何も用意してはございません。
どうぞ きのふに逆戻りしてください。
きのふいらつしつてください。
昨日へのみちはご存じの筈です、
昨日の中でどうどう廻りなさいませ。
その突き当りに立つてゐらつしやい。
突き当りが開くまで立つてゐてください。
威張れるものなら威張つて立つてください。
<・・・過ぎた日に帰れるはずはないのに、昨日への道はご存じの筈です、と言われると暗示にかけられ、ついその気になってしまいます。/常識の扉がひらいて、心の踏み込む先の風景が見えてきます。/(中略)犀星氏が女になりかわって、男に出した招待状かもわかりません。/やさしい言葉で、昨日なら何でも出来たはずといわれても、それが出来なかったのが昨日。/昨日なら用意があったけれど、今日も明日もあさっても、あなたにはもうなにの用意もないのですと、突き放す。所詮もどりようのない過去へのご招待。/かなしいような、切ないような、この無情とも思える招きに、私はなぜか応えたくなります。実にしばしば、はい、お伺い致しますと。>
なるほどと、その解釈のみごとさに頷きます。そして石垣りんさんが、しばしば昨日へ出かけてみたくなると告白し、そうですよね、と取り戻しようのない過去に思いが及びます。
「石垣りん」という名前は見たことがありますが、その文章を読んだのは今回が初めてでした。1920年に東京・赤坂で生まれ、55歳まで銀行に勤め、その間、詩を書き続け、2004年に他界されています。いわゆる詩人的な放蕩とは無縁だったようで、日常生活の中に詩を見るといった雰囲気で、エッセイからは繊細で豊かな感受性が感じられます。そういえば、昔、こんな詩を読んだのを思い出しました。
シジミ
石垣りん
夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。
「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクッテヤル」
鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うっすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。*
*『日本詩人全集 34 昭和詩集(二)』(新潮社)
この記事へのコメント
そらへい
石垣りんさんの詩は、日常の生活を
面白く捉えていてほほえましく思えましたが
また、孤独のようなものも感じました。
いい詩ですね。
爛漫亭
を付けるというのは、スリリングでもあり面白いものです。
「シジミ」は石垣さんの若い頃の作ですが、もう出来上がっ
ていますね。私が読んだのは50年以上前だったのですが、
記憶に残っていました。
yoko-minato
でも読んでびっくりでした。
お米が無いのは全国的にかと思って
いました。
関東だけなのですかね。
それとも神奈川だけ?
テレビでもお米が足りなくて輸入米を
紹介していましたので・・・
詩の世界を表現していらしたのに
こんな世俗的な話題ですみません。
爛漫亭
買ったそうです。変わったことは無かったようです。
あと一月もすれば新米が出てくるでしょうし・・・。
これも生活の中の思ですね。