伝記の読み応え

 昨年末、毎日新聞の2024年「この3冊」で詩人の荒川洋治さんが野口冨士男『散るを別れと』(小学館)を推薦していたので、早速、読んでみました。永井荷風に影響を与えた井上唖々という人についての「夜の烏」、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の夫人・小泉節子の話「残りの雪」、明治の作家・斎藤緑雨の生涯についての「散るを別れと」の3作からなっていました。


 なんともマニアックな人物を取り上げたものです。しかも伝記という訳ではなく、小説仕立てになっていて、登場人物たちが対象人物について語り合ったりする仕掛けになっています。


 「あとがきに代えて」で著者は < 読者にもすこしは楽しんでもらえるような伝記文学の方法はないもんかと考えた末にたどり着いたのが、想像や空想も挿入できる小説と伝記のドッキングというスタイルであった。 > と書いています。伝記に嘘は書けない、かと言って、どうしても分からない事がある、伝記作者の苦悩を緩和する試みなのでしょう。


 では、この3作は成功しているのでしょうか? 荒川洋治は成功として推薦しているのでしょう。わたしは、うーむと首を傾げたくなりました。ちょっと策に溺れ過ぎではないのか? 文章家として定評のある著者ですので、随筆風にでも書いてくれればそれで充分だったのではないでしょうか?

 伝記といえば少年・少女向けの偉人伝を小学生の頃に親しんだ人は多いと思います。ナイチンゲールとかナポレオンとか、こども達の心の成長にそれなりに寄与したのでしょう。青年期になると、人間はそんなにいい面ばかりではなく、複雑なものだと気づき、小説や映画に興味を持つようになったりするのでしょう。

 そして歳を重ねて、ある時、小説が絵空事のように思え、空々しく感じられる時、伝記が面白く、身に沁みて読めるようになるようです。伝記はその人の行動や手紙、書き物、周囲にいた人たちの証言などを隙間なく積み重ね、一人の人間を創造してゆきます。粘土で生きた人間を作り出す塑造家のような作業かも知れません。


 わたしが最初に感銘をうけた伝記は、中村光夫『二葉亭四迷伝』(講談社叢書)だったように思います。言文一致体の小説『浮雲』を生み出し、ロシア文学に魅せられ、ロシアからの帰途、船中で客死した四迷の苦闘の生涯が活写されていました。少し毛色は違いますが、シュテファン・ツワイクがフランス革命からナポレオン時代、王政復古期を生き延びた政治家を描いた『ジョセフ・フーシェ』(岩波文庫)も印象深い作でした。


 渡辺淳一『遠き落日』(角川書店)は野口英世の ”偉人伝とは異なる” 壮絶な人生を描き切った傑作でした。神坂次郎『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(新潮社)も異能人の人間性が垣間見られ力作です。女性では、数え年8歳でアメリカへ国費留学した少女の人生を、残された手紙から再現した大庭みな子『津田梅子』(朝日新聞社)は、明治という時代の新しい国を作るという意気込みと顛末が語られ読み応えがありました。


 振り返れば、偉人だけでなく自分の父親や母親の生涯にもそれなりに、波乱があったり、分からない部分があったり、どんな思いを抱いていたのかなど、ふと伝記的興味を感じたりするものです。それだけ人間の人生には多様な面白さがあるのでしょう。



この記事へのコメント

  • mm

    おはようございます^^
    どうもわたくしはあまり人間に関心がないのか(あるいは偉人と呼ばれる人に関心がない?)、伝記ってほとんど読んだことが無いように思います。
    野口英世は読んだかなぁ~フィクッションの方が好きかも^^ゞ
    2025年01月18日 06:53
  • 爛漫亭

     mmさん、伝記を読むと人間の多様性に驚かされます。野口英世などは破天荒で鼻つまみ者で借金魔で生活者としては破綻していて、それでいて不思議に魅力があるという人物のようです。現実には側には居たくないなぁと思います。でも、そんな人だからこそ、人類に貢献する新発見をする可能性がある、面白いものです。
    2025年01月18日 10:40
  • tai-yama

    伝記と小説の境目が私のような人間はわからなかったり(笑)。
    井上靖さんの「蒼き狼」とか「天平の甍」とか教科書掲載
    だったりしますが、マニアックなのでなかなか好みです。
    2025年01月18日 19:56
  • 爛漫亭

     tai-yamaさん、歴史小説で、本当にそんなこと喋ったのか?と時々、思いますが、伝記ではその辺が作者の苦悩でしょう。いっぺんに嘘っぽくなる。
    2025年01月18日 21:05
  • てんてん

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    2025年01月18日 22:55
  • yoko-minato

    人間には多様性があるという言葉は納得です。
    どんな素晴らしい人も隠れた人間性があったり
    平凡な人にも驚くようなことが秘められていたり
    みなそれぞれいろんな人生があるのだと思います。
    それでも偉人伝に伝えられる人物は優れたものが
    多くあるのでしようね。

    2025年01月19日 08:24
  • 爛漫亭

     yoko-minatoさん、人間には色々ありますね。規格外であったり、いびつだったり・・・それがまた可能性でもあったり、面白いですね。
    2025年01月19日 09:40
  • ハマコウ

    随分前のことになります。
    教育講演会で梅原猛さんは道徳の時間は伝記を読むだけでよいとおっしゃっていました。伝記には、よい面もよくない面も含めて道徳の価値項目がすべて含まれているように思います。
    2025年01月19日 10:36
  • 爛漫亭

     ハマコウさん、そうですね、ただ良くできた伝記は大人の楽しみで、子供向きではないかも知れませんね。昔の論語の素読はそんな役割だったのでしょうね。
    2025年01月19日 11:29
  • そらへい

    Seesaaブログに移転された方がほとんどになってきたのに
    まだどなたもRSSを登録していないので、読み落としをしていました。
    伝記も史実に忠実なのと、想像が勝ったのといろいろですね。
    あまり史実に忠実過ぎるのも堅苦しいですが、想像で飛躍しすぎるのもどうかと思いますね。
    中村光夫「二葉亭四迷伝」若い頃読んだ気がします。中身はあまり覚えていませんが、二葉亭四迷のことをほとんど知らなかったので、良かった記憶があります。
    2025年01月19日 20:40
  • 爛漫亭

    そらへいさん、『二葉亭四迷伝』をお読みとは驚きました。'70年代に評判が良かった本だったとは思うのですが。若い頃に波瀾万丈の良質の伝記を読むと、生きてゆく上での養分になるでしょうね。
    2025年01月20日 11:22
  • トモミ

    「遠き落日」は知ってはいましたがまだ読んでなかったので、是非読んでみたいと思いました!
    2025年01月21日 05:44
  • 爛漫亭

    トモミさん、『遠き落日』はぜひ、お薦めです。ウイルスの時代に病原細菌を探し続けた英世の悲惨!
    2025年01月21日 09:26
  • chonki

    驚きました。野口富士夫さんの本以外5冊みんな読んでいます。野口さんの本に取り上げられた井上啞々という人は知りませんが、小泉節子や斎藤緑雨の伝記は読んだことがあります。
    「筆は一本、箸は二本。衆寡敵せず」という緑雨さんの言葉を思い出しました。ジョセフ・フーシェの敵手であるタレーランの伝記まで読んだことがあります。伝記は私の一番好きな分野かもしれません。結婚以来50年、うちにはテレビがありません。その分本はよく読むのですが…。体のあちらこちらにほころびが表れ始めましたが、目と口は丈夫やねと妻に言われています。
    2025年01月22日 10:16
  • 爛漫亭

    chonkiさん、お元気そうで何よりです。私は目と耳が衰え、口だけになりました。よく出来た伝記は楽しいですね。ここ数年に読んだものでは、本居春庭を描いた足立巻一『やちまた』、カッケの高木兼寛の吉村昭『白い航跡』が印象的でした。お互い口だけは元気に暮らしましょう。
    2025年01月22日 12:05
  • chonki

    「やちまた」は出版直後(50年前)に、吉村昭さんの本はこれを含めて40~50冊は読んでいます。年に100冊読むとして60年以上ですから・・・。まったくの乱読ですがおのずと傾向はあります。音楽は全くダメですが斎藤英雄の伝記などは面白かった記憶があります。
    2025年01月22日 13:03
  • 爛漫亭

    chonkiさん、だんだん好みの作家が少なくなって、昔、読みそびれた本を取り寄せて読んだりしています。今は昨年出たエマニュエル・トッド『西洋の敗北』を読んでいますが、なかなか刺激的で興味深い論考です。お薦めです。
    2025年01月22日 14:52
  • chonki

    間違えました。斉藤秀雄です。父親があの中辞典の斎藤秀三郎さんです。エマニュエル・トッド今読んでいます。この類も好きな分野です。あと進化論周辺とかも。
    2025年01月22日 15:54
  • 爛漫亭

    chonkiさんもトッドを読んでますか、家族システムとか出生率とかで、色々なことが見えてきますね。
    斉藤さんはサイトウ・キネン・オーケストラに名を残しましたね。
    2025年01月22日 21:10
  • おと

    人間ひとりひとりにストーリーがありますよね。私から見えていた父の生涯と、父自身の心や事実は、大きく違うんだろうなと想像します。
    2025年01月23日 01:38
  • 爛漫亭

    おとさん、人間の行動やこころは多様で、本人自身の説明が正しいとも限らない。伝記には人間を描く困難と人間に対する興味との格闘があるのでしょうね。
    2025年01月23日 09:23